■「楽天地」誕生前夜

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今から43年前の1977年。読売巨人軍の王貞治選手が世界記録となる756号の本塁打を記録したその年、ここ福岡市天神で「楽天地」のもつ鍋は誕生しました。
そして、この世界のホームランキングの誕生と共に、たった1店の小さな個人経営の店からもつ鍋という料理が誕生したのです。

この時、後に「福岡3大グルメといえば、ラーメン!辛子めんたいこ!もつ鍋!」と言われ、東京をはじめとした全国でもつ鍋の一大ムーブメントが起きる程にまで有名な料理になるとは誰一人として想像しなかったでしょう。
ただ一人、ここの初代店主である水谷寿を除いては。。。。

実は福岡県にはそれ以前より、もつ鍋によく似た料理が存在していました。
戦後間もない頃より、ホルモンを鉄鍋で炊き、醤油ベースのたれをかけて食べる、すき焼き風のホルモン鍋がそれです。
今のすき焼きの牛肉の代わりにもつを使った料理です。

ちなみに、一般的に言われている「ホルモン」の語源は、肉の中でいらない部位=捨てる肉=「ほおるもん(捨てるものの方言)」=ホルモンと言われています。

戦後の混乱期、食べるものにも苦労していた時代に、捨てる部分をどうにかしておいしく食べることはできないかと試行錯誤した結果、考え出された料理なのでしょう。もともと捨てる部位であったため仕入れ値も安く、お客様にも安く提供することが可能であったこともホルモン鍋の特徴でしょう。

戦後からしばらくの間、特に福岡県においては石炭産業が隆盛を極めており、そこで働く炭鉱労働者を中心に、安価で美味しいこのホルモン鍋は人気を博していました。
ところが、時代は石炭から石油の時代へと移り変わり、あれだけ景気の良かった炭鉱エリアも次々に閉山・閉所していき、街から炭鉱労働者が消えるとともにホルモン鍋も急速に市場を縮小し次第に人々の頭の中からその存在が忘れ去られようとしていました。

 

■「楽天地」の誕生

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そして時は流れ、1970年代初頭に日本を襲ったオイルショック。
消費者物価が1年で23%も上昇し、狂乱物価ともいわれる異常な状態が一般庶民の財布を直撃しました。

また一方で、食品業界においては技術革新が進み、食べ物があたかも工業製品のように工場で生産される時代へと移り変わりました。
工場で大量生産された安価な食べ物を大量に消費する、いわゆる「飽食の時代」の幕開けです。

このままでは「飽食」が「崩食」になってしまう、そういう危機感をいだいた人々も少なからず存在し、この1970年代から1980年台にかけて様々な健康志向の料理が全国各地専門飲食店として成立するようになったのもこの頃です。

そしてここ福岡では、天神のダイエー(現ダイエーショッパーズ福岡店)裏の雑居ビルの地下1Fに もつ鍋専門店「楽天地」が創業の時を迎えました。

初代店主の水谷寿は

「新鮮なもつはクセになるうまさたい。
こればみんなに食べさせたい。
もつの旨みと、たっぷり野菜の旨みが重なると、もうたまらん。
もつは焼くよりも煮るほうが臭みが消える。鍋一本にしよう。
庶民の料理やけん、屋台に屋根がついたような店を作ろう。」

体にやさしく健康的で、財布にやさしくお腹一杯になり、オリジナルをポリシーとしてメニュー開発にいそしみ、ついに楽天地のもつ鍋スープを作り上げました。従来から地域に伝わるホルモン鍋をアレンジしたオリジナルもつ鍋を完成させたのです。

店の広さはわずか15坪。従業員は店主の水谷寿とその妻の2人だけ。小さな小さな船出でした。
しかも、メニューはたった1種類のこたわりの元祖もつ鍋だけ。今でも一緒、もつ鍋しかないもつ鍋専門店です。

以降、もつにこだわり、具材にこだわり、スープにこだわり。すべての物にこだわりぬいた楽天地のもつ鍋は徐々に口コミで広がり、ほどなくして博多っ子の胃袋を鷲掴みにすることに成功しました。

その後数年が経ち、現在の天神ビブレの裏にある雑居ビルに本店を移転した楽天地は、その後も福岡市内各地に店を構え、福岡市を代表するもつ鍋専門店へと成長したのです。

 

■第1次もつ鍋ブームの到来は楽天地から

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楽天地をはじめとした数々のもつ鍋店が軒を連ね、もつ鍋が福岡都市圏ではそれなりに知名度の高い料理となった1990年代前半、東京を中心に突如としてもつ鍋ブームが巻き起こりました。

仕掛け人は東京の飲食店ディベロッパーだとか大手広告代理店だとか諸説ありますが、いずれにせよ日本の一地方都市の庶民的鍋料理が全国規模で認知されるきっかけとなる一大ムーブメントでした。

実際、東京においては新宿・渋谷・池袋・新橋をはじめとした各繁華街はもとより、横浜や大宮といったその周辺地域までもつ鍋屋が次々に開店し、1992年には「もつ鍋」が、その年の流行語大賞を獲得するほどの勢いだったのです。

「第一次もつ鍋ブームのきっかけは、楽天地からだったのでは??」と私は思っています。
当時、福岡の中心、天神には、福岡県庁と福岡市役所がありました。
100m離れた天神の裏通りにある楽天地には、役所の方々が、まず自分で食べてみて、地元にこんな美味い料理があると感激されて、大挙してご来店いただいていたのを覚えています。

それから、役所の方々が、全国から福岡県福岡市を視察に来られるお客様を、博多の名物をふるまいたいと、ものすごい数、連れて来られるようになりました。

「こんな料理、味、はじめてです。」

「福岡の郷土料理、おいしいですね~」

とのお声をいただき、口コミで全国に広がっていくきっかけになったのではないか?と思います。
常連の出張族、転勤族の方々からは、
「大将!家に帰って、嫁さんと子供に、博多のもつ鍋を食べさせたい。」
と、頼まれました。その場で、もつと野菜をビニールに、スープを焼酎のビンに詰めて持ち帰りでお渡ししていました。

全日空のスチュワーデスさんに聞いたお話です。
金曜日になると、福岡単身赴任の方々が東京に、帰京され、そのときに機内持ち込みで、楽天地のもつ鍋セットを持ち帰られ、機内は、ニンニクの香りで、いっぱいになっていたそうです(笑)

「たかがもつ鍋、されどもつ鍋。」

汗をかきかき、鍋を作りながら、当時、親父がつぶやいていたのを覚えています。
自分が作ったもつ鍋が、多くのお客様に食べていただけるようになって、本当に嬉しそうにしていたのを覚えています。

 

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福岡市内にも、東京・大阪にも多くのもつ鍋店がオープンしていきました。
1992年ごろ、まさに、第一次もつ鍋ブームを迎えたのです。

ブームはブーム。必ず終わりがきます。
その話は後ほどにとっておきましょう。お楽しみに。

今回、当時からのお客様のご来店数を帳簿を見ながら、推定してみました。
創業43年で、何と、累計829万人。
多くのお客様に愛されて、博多名物のもつ鍋は、楽天地のもつ鍋は、福岡・博多を代表する郷土料理に成長していったのです。